2012年5月6日日曜日

ピス田助手の手記 15: アンジェリカ邸の対空ミサイル







「うそはつきませんか」とみふゆは半裸の肉屋を見据えてぴしりと言った。
「あのね、お嬢ちゃん」ブッチは心外だと言わんばかりに身を乗り出した。切っ先がぷすりと肉にめりこんだ。「みくびってもらっちゃ困ります。わっしはね、でくのぼうに見えるし実際そうかもしれませんが、嘘だけは生まれてこのかたついたことがないんですよ!嘘と礼儀は仲良しだってのがウチの婆さんの持論でね、礼儀を知って嘘をおぼえるくらいなら無礼でいいから正直であれとさんざっぱら叩きこまれたんです。信じる信じないはおまかせしますがね、そりゃもう絶対なんですよ、婆さんの忌々しい面と世界中の肉に誓ってね!」
「ひっこめて平気だとおもうよ」とわたしはみふゆを諭した。「ブッチが正直なのはわたしも保証できるとおもう。どれだけ大袈裟にみえてもやっぱり本当なんだってのは身をもって体験したからね」
「その代わりと言っちゃあなんですが……」
わたしは前言を撤回した。「斬ってよし」
「痛い。早合点をしちゃいけません。急いてはことをウドンの汁と言うでしょうが?わっしが言うのは、卵のほうです」
「卵?」とわたしは言った。「卵もうむのか!」
「こいつは雌鳥ですからね」
「言われてみれば雌鳥だ。イゴール、卵は?」
「毎日ではありませんが、生む日もたしかにございますね」
「冷たい卵を?」
「もちろんです」
「とするとそれは……」
「お嬢さまの朝食にお出ししております」
「どうしたって無精卵なんですから、そりゃ食うよりほかにしようがありませんや」とブッチは言った。「そこにわっしのお邪魔する余地があるわけですな」
「なるほどね」とわたしは感心した。「たしかにそれは交渉次第だろうな」
「卵は卵でまた稀なる美味だそうで、いや残念ながらわっしはこれもまだそのご縁に恵まれてませんが、親鳥が美食家の天竺ってな具合ですから、そりゃもう推して知るべしというか、そういうもっぱらの噂です」
「どうなのイゴール?」
「わたくしも口にしたことはございませんが」とイゴールは答えた。「お嬢さまの好物であることはわたくしが保証いたします」
「そんな宝石みたいな卵をアンジェリカが知らずに食ってるのかとおもうと気が遠くなるな」
「そこでです、どうですね旦那、わっしの店にたとえば週に一度、ふたつばかり卸してもらうってわけにはいきませんか」
「言ってなかったかもしれないけど、わたしはこの屋敷の主人じゃないんだよ」
「おやそうですか!わっしはてっきり……とするとこちらの旦那が?」
「いや、彼は執事だ。主人は別にいる」
「ご主人はどちらに?」
「さあ」とわたしは言った。「それが問題なんだ」
「留守ってことですか」
「ちょっと待ってくれ、そのへんの話はもうさんざんしたはずだぞ」
「わっしは初耳ですよ」
「うん、聞いてないだろうとはおもってた。でもしたんだよ。アンジェリカはここにいない。ブッチがここに呼ばれたのも、元を正せばそこに端を発してるんだ」
「なんだかよくわかりませんが」とブッチは眉間にしわを寄せながら言った。「ではいつお帰りになられるんで?」
「さあ」とわたしは言った。「帰るとしたら用が済んだときだろうね」
「ちっとも要領を得ませんな!」
「そのとおり。要領を得ないんだ」
「埒も明かない」
「埒も明かないね」
「ようやくお鉢が回ってきたとおもったらこれだ!」とブッチは途方に暮れたような顔をして言った。「千載一遇の機会とキスする権利が目と鼻の先にあるってのに、そりゃあんまりですよ。どうすりゃいいんです、一体?」


ドゴンと何か大きなものの衝突したような音があたりに轟いたのは、ちょうどこのときだった。衝撃で屋敷中の窓がびりびりと震えた。何ごとかと顔を見合わせるわたしたちをよそに、イゴールだけがひとり涼しい顔をしていた。
「まさかとはおもうけど」とわたしは言った。「例の呼び鈴じゃないだろうね」
「迎撃システムが作動したようです」
「迎撃?迎撃って何だ」
「屋敷が攻撃されたということです」
「攻撃っていったい誰が……あ、そうかしまった」とわたしはじぶんのたいへんなあやまちに今さら気がついて身震いした。「博士を怒らせたらしい」
「問題ありません」とイゴールはあいかわらず涼しい顔のまま言った。「屋敷の対空ミサイルは世界最高水準の性能を誇ります」
「この家に当たったわけではないってこと?」
「屋敷は疑いなく無傷です」
「それを言うなら博士の手になる爆発物だって宇宙最高水準の破壊力を誇るんだぜ」とわたしは苦々しいきもちで反論した。「助手のわたしが言うんだからまちがいない」


ところで、わたしにも言及したくないことはある。都合がわるいというよりは、気が滅入るという理由でだ。しかし一方で「親切なのね、ピス田さん。好き」とご婦人方に褒めそやされたい野心では、人後に落ちない自負もある。したがってあまり気の進まないことではあるし、この段階で説明を要するかどうか甚だ疑わしいともおもうのだけれど、わたしの唯一にしてひどく残念なボスであるムール貝博士とは誰なのか、というよりもむしろ何なのか、ここであらためてしぶしぶ紹介しておこう。






<ピス田助手の手記 16: ムール貝博士とは何か>につづく!

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